『ギルガメシュ叙事詩』と不死の花――時に敗れる人間

円筒印章の印影。二人の英雄が翼をもつ人頭の牡牛を押さえ、打ち倒そうとしている。
天の牡牛を殺すギルガメシュとエンキドゥ(スコイエン・コレクションの同定による)。褐色の瑪瑙製、新アッシリア時代の円筒印章の図像の複製、前7世紀頃、MS 1989。

最大の危難をともに乗り越えてきた友エンキドゥの死を、ウルクの王ギルガメシュは受け入れることができない。息絶えた友の身体のうちに、いまや自分自身の行く末をも見てとるからである。この見通しを前にして、超自然の敵と渡り合うことを可能にしてきた力は、その意味を失う。王は都を離れ、人間に共通の運命を免れた一人の男を探し求めて旅立つ。その男が神々から授かったものを、自らも手に入れられるのではないかという望みを抱いて。

その遍歴の最後の段階に現れるのが、しばしば「不死の花」と呼ばれる名高い植物である。ただし、この呼び名には注釈が要る。叙事詩が描くのは若さを取り戻させる力をもつ棘のある草であって、それが永遠の生命を授けるとはどこにも述べられていない。ギルガメシュはこれを手に入れるが、その効き目を確かめる前に失うことになる。

メソポタミアの叙事詩がたどった道

この叙事詩の伝承は、独立した物語と相次ぐ改作を通じて、何世紀にもわたって形づくられた。ギルガメシュをめぐるシュメール語の詩は個別の作品として流布しており、他方、古バビロニア時代、とりわけ前18世紀からは、より長大なアッカド語の物語の断片が伝わっている。草の探求とその喪失の物語が組み込まれているのは、後代のいわゆる標準バビロニア版である。この版の現存する写本のうち最も重要なものの一つが、前7世紀のニネヴェにあったアッシュルバニパルの図書館の粘土板であり、すでに長い歴史をもつ文学伝統を記録している。

こうした経緯が、英雄をめぐる物語のあいだに相違がある理由を説明する。ここで取り上げる物語では、王の武勲への賛嘆と並んで、英雄的な力では解き得ないものへの執拗な問いかけが見られる。愛する者の死は、それまでのあらゆる成功の重みを変えてしまうのである。

エンキドゥと英雄的確信の崩壊

物語の冒頭で、ギルガメシュは圧政的に権力をふるい、ウルクの住民の嘆きを招いている。その力への対抗として、神々の介入によってエンキドゥが造られ、最初の格闘ののち、王の最も親しい友となる。二人はともに杉の森の番人フンババを倒し、のちには、王に求愛を退けられたイシュタルがウルクに差し向けた天の牡牛をも殺す。メトロポリタン美術館の解説が要約するとおり、エンキドゥの死は、二人の英雄の行いに対する神々の反応の帰結としてもたらされる。

友の病と死によって、ギルガメシュは覆すすべのないものに直面する。彼は亡骸のそばを離れず、別れを先延ばしにするが、やがて腐敗が、遠ざけようとしてきた認識を彼に突きつける。そしてついに立ち去るとき、自らの死への恐れはすでに悲嘆のなかに入り込んでいる。それゆえ遍歴は、この苦悶の延長として、すなわち目の当たりにしたばかりの終わりから遠ざかろうとする試みとして読むことができる。

悲嘆の処理を軸とするこの種の解釈は、現代の学術的議論においても提起されている。これは文学上の人物の一つの読み方であり、現代の概念を古代のテクストにあてはめる際に求められる距離を保ったうえでのものである。

死の水の彼方へ

彼が目指すのは、大洪水を生き延び、妻とともに神々から不死を授けられたウトナピシュティムである。渡し守ウルシャナビの助けを得て、ギルガメシュは死の水を渡り、夫婦の住む遠い地にたどり着く。そこで彼は、ウトナピシュティムに与えられた例外が洪水後の神々の特定の決定に結びついていたことを知る。同じ道をたどろうという訪問者の期待は、宙に浮いたままとなる。

第11の書板では、彼の弱さが、これまでに成し遂げたいずれよりも容易に見える試練を通して露わになる。六日七晩、眠らずにいるよう求められるのである。彼はほとんどすぐに眠りに落ちる。ウトナピシュティムの指示により、その妻は毎日、眠る王の頭のそばにパンを一つずつ置き、日数を記していく。目覚めたとき、過ぎ去った時間の証拠を目の前にさせるためである。

乾いてゆくパン、黴びてゆくパンのうちに、時間は家庭的な、ほとんど手に触れられるような存在感を帯びる。この場面は、英雄が自らの身体に依存していることを思い起こさせるものとして読むことができよう。彼が死の克服を求めるあいだにも、外からのいかなる戦いも要することなく、眠りが彼をとらえてしまうのである。

若返りの草と先送りされた試し

出立に際し、妻のとりなしを受けて、ウトナピシュティムはギルガメシュに、若さを取り戻させることのできる棘のある草の存在を明かす。王は足に重い石を結びつけて深い水の底へ降り、棘に手を傷つけられながらも草を引き抜き、重しの綱を断ち切って水面へ戻る。彼はウルシャナビに、これをウルクへ持ち帰り、まず老人に食べさせてその力を試し、そののち自ら用いるつもりだと語る。

この先送りは、英雄の別の一面をのぞかせる。あれほどの苦悶を経たのちにも、ギルガメシュはなお待ち、計画を立てることができる。草を得ることと用いることのあいだに、確証を求める必要を挟んだのである。しかしそれまでのあいだ、この貴重な獲得物は道中の危険にさらされたままとなる。

帰途、冷たい水で沐浴しようと足を止めたとき、一匹の蛇が草の匂いを嗅ぎつけ、音もなく近づいてそれを持ち去る。去りながら、蛇は脱皮する。岸辺に座り込んで泣くギルガメシュは、結局だれのためにこれほど骨を折ったのかと思いめぐらす。渡し守はまだ彼のそばにいる。

蛇と不平等な再生の可能性

脱皮は、物語のなかで、身近な自然の営みを、ふたたび若くなるという人間の失われた可能性と結びつけている。こうしてこの挿話は、起源譚的な読みを許すものとなる。王が自らの若返りの手段を失うまさにその時に、蛇が果たしているように見える再生を、神話的に説明するのである。

この出来事の簡素さは、とりわけ残酷に感じられるかもしれない。消耗しきる旅路と超自然の危険を経てきたあげく、草は沐浴のための一休みのあいだに失われる。視線は、むなしく終わった労苦を嘆く疲れた人間のうえにとどまる。時に対する敗北を語るのであれば、手に入れたばかりのものを保つことさえできなかったこの無力をも、そこに含めなければならない。

二人の友の印章とウルクへの帰還

添えた画像は、それより前の挿話である天の牡牛の殺害を、円筒印章の印影に表されたかたちで再現している。スコイエン・コレクションの目録は、原品を、褐色の瑪瑙製で前7世紀頃の新アッシリア時代の作品とし、MS 1989の番号で登録している。コレクションの同定によれば、短い衣をまとい斧を振り上げたエンキドゥが獣の尾をつかみ、長い装飾的な衣と角のある冠を着けたギルガメシュが一方の角を押さえてその首を打っている。牡牛は人頭で翼をもち、前脚を折り曲げた姿で表されている。

画像の長さに沿って像が繰り返されるのは、印章を転がすことによって図像が途切れなく展開することに対応している。この場面で、二人の友はまだともに行動している。続きを知る読者の立場からこれを眺めるとき、私たちはこの近しさに、とりわけ獣の身体をめぐって息を合わせる二人の手の動きに、目をとめることができる。

第11の書板の終わりで、ギルガメシュはウルクに帰り、ウルシャナビにその城壁を検分するよう促す。この帰還は、王が捨て去った生とふたたび結びつく場として都市を読むことを誘う。自らの身体をめぐる苦悶から、視線は、基礎と焼成煉瓦に始まり、点検し維持することのできる人間の営みへと向かうのである。